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- © Takehiko Noguchi
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先駆者が語るブンデスリーガ(前編)

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奥寺康彦氏がブンデスリーガ初の日本人プレーヤーとしてドイツに渡ったのは1977年10月。Jリーグが誕生する16年も前の出来事だった。ケルン、ヘルタ・ベルリン、ブレーメンに在籍し、9年間にわたってドイツで活躍。ブンデスリーガ通算出場数は234試合に上り、2017年に長谷部誠が記録を塗り替えるまで長く日本人選手の最多出場記録だった。ブンデスリーガへの道を切り開いた奥寺氏の偉業を、本人の独占インタビューで振り返る。 (※このインタビューは2017年3月に公開されたものを一部再編して掲載しています)

バイスバイラー監督との出会い

——まだJリーグさえなかった時代、ドイツのブンデスリーガでプレーするきっかけは何だったのですか?

奥寺 日本代表がドイツに遠征して、向こうでトレーニングや練習試合をする機会がありました。当時の代表監督だった二宮寛さんはケルンの(ヘネス)バイスバイラー監督とすごく仲が良くて、そのツテを使って練習場を確保したり、試合の相手をアレンジしてもらったりしていたんです。今では考えられませんが、日本代表の選手が5人一組に分かれて、ブンデスリーガの各クラブのサマーキャンプに参加しました。その時に僕が参加したのがケルンのキャンプだったんです。ドイツ人に混ざって練習する中でプレーを気に入ってもらって、それで「来ないか?」と誘いを受けました。

——実際にケルンに加入したのはシーズンが始まった後の1977年10月でした。この時期まで加入がずれ込んだのはなぜですか?

奥寺 これはいかにも日本人的な考え方なんですが、僕の日本リーグでの通算出場数が100試合まであと2試合だったんです。「ドイツに行くのは100試合を達成してからでも遅くないんじゃないか」ということでクラブに問い合わせたら、「それでも構わない。終わってからでいいから来てくれ」と言ってもらった。そういう理由で10月までずれ込んだんです。

——ドイツ行きに関して迷いはなかったですか?

奥寺 迷いましたね。当時25歳で、結婚もしていました。サッカーに関しての迷いはなかったんですが、家族のことを考えると、ドイツに住むということには少し躊躇がありました。今のように簡単に行き来できる時代でもないし、言葉の問題もある。向こうで家族に何かあったらどうしようという不安はありましたね。

——そういう中でドイツ行きの決め手となったのものは何ですか?

奥寺 やはりバイスバイラー監督が必要としてくれたことです。「レギュラーとしてプレーしてほしい」、「すぐに来てくれ」と言ってもらえましたから。

バイスバイラー監督の存在がドイツ行きの決め手となった - imago

——ドイツでのデビュー戦を覚えていますか?

奥寺 10月22日のデュイスブルク戦です。実はその前にフランクフルト戦もあったんですが、熱を出して出場することができず、それでアウェーのデュイスブルク戦が最初の試合になったんです。実はいきなりアクシンデントがあって(笑)。試合が始まってすぐに僕がファウルをしてPKを与えてしまったんです。最終的にはGKの(ハラルト)シューマッハーが止めてくれましたけど、デビュー戦はそれが強く印象に残っていますね。

——ドイツでの初ゴールはDFB杯のエッセン戦でした。

奥寺 12月の準々決勝でしたね。周囲から「そろそろ取るんじゃないか」と言われながらなかなか取れずにいたんですが、2部チームを相手にホームで2点決めました。

——1年目はリーグ戦で4ゴールを記録していますが、その4ゴールはすべてシーズン終盤の大事な場面で挙げたものです。

奥寺 確かに大事な試合でした。中でもシュトゥットガルトとのホーム最終戦でのゴールは重要でしたね。あの時点でメンヘングラートバッハ(ボルシアMG)と同じ勝ち点でしたから、負けたら終わってしまう。そういう試合で決勝ゴールを決めたことは記憶に残っています。

——最終的にはブンデスリーガとDFB杯の二冠を達成しました。ドイツに渡って1年目から結果を残せた要因は何だと思いますか?

奥寺 まず周りの選手に恵まれた。当時のケルンには代表選手がそろっていましたし、戦力的にも優勝を狙えるチームでした。そんなチームに呼んでもらって、戦力として貢献できたのはよかったですね。良い選手たちにうまく絡むことができました。

——ドイツでの生活にはすぐに馴染めましたか?

奥寺 最初はバタバタでした。10月にドイツに渡って、11月に家族が来て、2月には息子が産まれて、そこからシーズンが佳境に入って……。慣れるというよりは、目の前のことをただこなしていくという感じでした。先のことを考える余裕もなかったし、今与えられたことをしっかりとこなしていくだけでしたね。

——海外挑戦した選手が精神面で苦しむケースは少なくありません。

奥寺 僕の場合は家族がいたことが大きかった。練習が終わった後、家で待っていてくれる人がいるというのはやっぱり大きいですよ。だからホームシックのようなものは一切なかった。もし離れて暮らしていたら、会いたくなっただろうし、苦しい時についつい弱気になっていたかもしれない。そういう意味で家族の存在は本当に励みになりました。妻は出産もドイツでしましたけど、そういう中で僕がサッカーに集中できる環境を作ってくれたことには本当に感謝しています。

——言葉の面で不自由しなくなったのはいつ頃ですか?

奥寺 最初は練習の前後でドイツ語学校に通っていました。3カ月ぐらい通ったかな。その後は片言ながらチームメイトと会話をして、少しずつ、少しずつ覚えていった感じです。ただ、細かいニュアンスも含めて本当に理解できるようになったのは2年ぐらい経ってからですね。

——海外でプレーする上でやはり言葉は重要なポイントですか?

奥寺 自分の考えをちゃんと相手に伝えること、監督がミーティングでどんな指示を出しているかをしっかり理解すること。細かいニュアンスまで理解できるかどうかも含めて、そこは大事だと思います。

インタビュー・文=国井洋之

後編へ続く

ブンデスリーガ挑戦1年目でリーグとDFB杯の二冠を達成 - imago sportfotodienst